fragrance

【注意書き】

・END1または2を迎えた後の2人
・たぶん半同棲してる
:本編ネタバレあり
・セクシャルな仄めかしあり
・設定ふんわり

 

fragrance

部屋を訪れてから感じてた、かすかな香り。
ソファで隣に座って、その甘い香りの源が彼女だと気づいた。

「君、お菓子作ってた?美味しそうな匂いがする」

「ううん、今日は作ってないよ。香水かな」

「香水?」

「そう、友達と出かけた時に買ったんだ」

確か、ちょっと前の休日に彼女の帰りが遅かった時があった。
そういえば、友達と会ってきたって言ってたっけ。

立ち上がった彼女が、寝室から小さなボトルを持ってきて見せてくれた。

「店頭で試した時は好きな感じだったんだけど、肌に乗せたら違うなあ」

「そう?」

俺はいい香りだと感じているけど、彼女は違うらしい。
見せてもらったボトルには、何やら色々と香りの成分が書かれてる。

「うん、私には甘すぎていまいちかな。
朝つけて何時間も経つのに、あんまり匂い薄まってないし」

「バニラ……いや、キャラメル、かな?」

「ひゃっ、首筋嗅がないで!くすぐったいからっ」

スン、と彼女の首筋に顔を埋めて匂いを確認しただけなのに、すごい勢いで逃げられた。
ちょっと拗ねそうだ。
じと、と彼女を睨んで恨み節に呟く。

「そんなに逃げなくてもいいだろ……」

「くすぐったかったの!うーん、いっそほんとにお菓子作ろうかな」

「急だな、どうしてまた」

「バニラエッセンスの匂いで上書きしよっかなって。
パウンドケーキ焼くけど、ドライフルーツとバナナ、チアキはどっちがいい?」

「そうだな……ドライフルーツかな」

「わかった、準備するね!」

そんなやりとりの後、小一時間してパウンドケーキが焼き上がった。
バニラとバターの香りがあたりに充満して、確かに彼女の香水の匂いは紛れてわからなくなった。
その後は焼き立てのパウンドケーキをひとかけずつ味見したり、残りは冷ましておく事にして2人でランチの準備をしたり、何だかんだで香水の件は忘れ去られた。


また別の日、また彼女から香りがした。
隣に座った時はわからなくて、お茶を淹れ直すのに席を立った時にふんわりと香った。
ただ、香水や柔軟剤みたいにわかりやすいものじゃなくて、彼女自身の肌の匂いが少し強まったような。

「君、なにかつけてる?」

「すごいねチアキ、わかるんだ。そう、前とは別の香水つけてるよ。
これは、自分の肌の匂いがするんだって」

そう言った彼女はタタッと寝室に駆け込んだと思ったら、かなり小ぶりなボトルを見せてくれた。
フルボトルだとそこそこ値が張るので、ネットで量り売りをするサイトからお試し購入したらしい。

首筋を嗅ごうとしたら、そっと首をそらした彼女に躱された。

「今日は首筋じゃないとこにつけてますー」

いたずらっぽく、ニコッと笑われた。
弱ったな、文句を言おうにも笑顔が眩しくて言えなくなった。

「どこにつけてるんだ?」

「んーと、肘の内側。ほとんど服の中なのに、チアキよく気がついたね」

「君の肌の匂い、好きだからな」

「……!こ、コメントしづらいよ」

照れ隠しで、目を逸らされた。
赤く染まった耳朶がかわいくて、チュッとキスを落とした。

「ち、チアキ!」

「君がかわいいのがいけない」

お咎めを受けないうちに、座らせた彼女の肩を抱いて引き寄せた。

「うん、君の匂いがする。この前のはいまいちって言ってたけど、今日の香水は気に入ったのか?」

「うーん、今日のはね。自分がどんな香水が似合うか知りたくてつけてみたんだ」

「香水もいいけど。俺は、普段の君の肌の匂いが好きだな。あと、君の作るお菓子の香りも」

「……そうやって無意識に口説くの、私だけにしてね」

君にしかこんな事言わない、と言いかけたセリフは彼女からのキスにかき消された。

 

 

proof of love

【注意書き】

・END1または2を迎えた後の2人
・たぶん半同棲してる
:本編ネタバレあり
・セクシャルな描写あり(行為の描写は回想にちらっと程度)
・ほぼ女攻め描写ばかり(苦手な人は逃げてください)
・設定ふんわり

 

proof of love

 

――やってしまった。

(なんて事をしてしまったんだ……!)

後悔が脳裏を駆け抜ける。
手当をしようにも、相手は熟睡していて、起こしてしまうには忍びない。

(どうしよう。こんな事になるなんて)

彼女の両肩には、俺の十指が食い込んだ痕がくっきり残っていた。

昨夜、そういう雰囲気になって、ベッドにもつれ込みワンラウンドをこなした。
その後、高揚が収まらない俺に彼女がその……、手を尽くしてくれて。
諸々含めてすごく善かったけど、彼女に可愛がられた時にちょっと我を忘れてしまう瞬間がいくつかあった。
後始末を終えてから簡単に着替えて、2人して眠りに就いたのは覚えてる。

(せめて、寝る前に言ってくれれば……!!いや、気づいてなかったのか?)

俺が起きた時にキャミソールを着た彼女がころりと寝返りを打って、それが朝の光に照らし出されて気づいたのがついさっき。
白い肩口の背中側に、ちょっと血の滲む痛々しい傷痕。
それをつけたのが俺だっていう事実が、ものすごく後ろめたい。
普段からやや深爪気味くらいに短く整えていたのに、それでも食い込んで痕になるって……彼女、きっと相当痛かったんじゃないか?

青ざめて俯く俺に全く気づく事もなく、規則正しく心地よさそうな寝息を奏でてる彼女。

(申し訳ない……)

女性の肌になんて事をしでかしてしまったんだろう。
慙愧の念に堪えない。

手を伸ばして、背に流れる彼女の髪を撫でた。
サラサラの手触りが心地いい。
彼女は髪も肌も、きちんと手入れしてる。
そんな彼女に対して、本当にひどい事をしてしまった。

「んん……?おはよ、チアキ」

やや、寝ぼけたような舌っ足らずの声が俺を呼んだ。

「おはよう……いや、その、ごめん!!」

「んぇ、、、なに?なんか、あったの?」

挨拶もそこそこに、バッと頭を下げた俺に、彼女はきょとんとする。
眼をこすりこすり、あくび混じりに身体を起こして俺に向き合ってくれたが、頭上には疑問符が浮かんでるのが見えるようだ。
そりゃそうだろう。
起き抜けに主語もなく謝罪されたら、誰だってわけがわからない。

「俺、君にその、昨夜……ひどい事をした」

「うん……?どっちかっていうと私じゃない、それ」

「そうじゃなくて、そういうアレじゃなくて!」

ぽやんとした口調ながら、あけすけな内容を述べた彼女に俺は赤面した。

(確かに、散々焦らされたし言葉でいたぶられたし何度も何度もイかされたけど!!)

「ごめん、された覚えがないや」

「君の肩に、しがみついたろ?たぶん、その時に引っ掻いてたみたいだ。ごめん!!」

「あー、そういえば。うん、言われてみればちょっと痒い?かも」

「……って、そんな反応?」

肩に手をやって、傷を確かめた彼女の反応は薄い。

「あとで鏡で見てみるよ。別に痛くなかったし、まあ大した事じゃないって」

「でも俺、女性の君にこんな、」

「故意にじゃないし、気持ちよかったから力入っちゃったんでしょ?しょうがないよ」

ぽんぽん、と俺の肩を優しく叩いた彼女は、そのまま薄着の胸に俺を抱きしめた。

「き、君、服まだ着てないだろっ」

「キャミソール着てますー」

「屁理屈言わないでくれっ!」

慌てる俺と、もはや大物感すら出てる彼女の落ち着きの対比が、何だかひどい。
もう、本当に色々と居たたまれない。
身の置き所がない心地なのに、頬を埋めた柔らかい感触にちょっとうっとりしてるし、反応しかけてる。
男ってのはこれだからどうしようもない……。

「こんなの、勲章みたいなものだもん」

だから気にしないで?
と額にキスされて、キャパオーバーな俺は漢前すぎる彼女の胸に熱くなった顔を埋めた。

 

 

SCARLET

【注意書き】

・END1または2を迎えた後の2人
・たぶん半同棲してる
:本編ネタバレあり
・セクシャルな描写あり(行為の描写は回想にちらっと程度)
・ほぼ女攻め描写ばかり(苦手な人は逃げてください)
・設定ふんわり

 

SCARLET

 

透明感のある、赤いシロップに浸したような爪が、目の前でひらめく。
ついさっき俺の唇にチョコレートを一粒餌付けした彼女の指先には、
甘い匂いが移り香になって残っていて、どうしようもなく誘われる。

夕食の後、彼女が新作だというチョコレートを幸せそうに食べていた。
味見したいと言った俺に、手ずから食べさせてくれたのがついさっきの事。
チョコレートはもちろん美味かったんだけど、それ以上に綺麗に整えられた爪と、一瞬俺の唇に触れた指の感触の方が欲を誘う。

「チアキ?まだ食べたいの?」

「……うん」

指先を凝視する俺を不思議そうに見つめた彼女の問いに、上の空で返して手首を掴んで引き寄せる。
え、と驚いた声を上げる彼女にかまわず、その指に舌を伸ばした。

ちゅ、ちゅく。

ピチャ、ぢゅぅ、ちゅぷんっ。

はしたない水音が、やけにリビングに響く。
舌を這わせ、吸い付き、口に含み、舐めしゃぶった彼女の指は、とても甘く感じた。
舌で触れた瞬間だけ肩をぴくりと震わせた彼女は、特に咎めもせずに俺のする事を受け入れてるようだ。
それに気を良くして、人差し指と中指をまとめて口の中に含み、指の付け根も舌でまさぐりながら吸い立てた。

かたい爪の感触が、舌の奥を掠める。
ジェルネイルという装飾を施された彼女の爪は、いつも綺麗だ。
一定のサイクルでデザインを変えるそれは、確か水分で浮いたり剥がれる可能性があったはずで、こんなふうに口の中で唾液にまみれさせるのは本当は良くないんだろう。
だけど、今の俺は興奮してしまってやめられそうにない。

くるりと、彼女が手のひらを上向きにした。

「んぅっ……?!」

だけでなく、上向きになった中指が俺の口蓋をすり、と優しく撫でたのだ。

――ゾクリ。

背筋が甘美な快感に震えた。

彼女とこうなるまで知らなかったけど、俺はこの撫でられた部分が弱いらしい。
……スイッチの入った彼女からキスの主導権を奪われると、かなり早く陥落してしまうくらいに。

「んんんっっ!」

「そんなに、おいしい?」

密やかな声が、吐息と共に俺の耳に吹き込まれて身震いする。
ほんの少し前まで和やかに夕食をともにしていたリビング。
ロケーションは同じなのに雰囲気は一転して、睦言の気配がゆるやかに充ちていく。

「……んぅ、ん」

先程の問いかけに、口内に彼女の指を含んだままではうまく発音できず、くぐもった声を漏らしながら目線で頷くのが精一杯だ。

「そう。ねえ、すごい事になってる」

含み笑った彼女の視線が、俺の下肢に向けられた。
ボトムスの前立を、屹立が窮屈そうに押し上げてる。

「チョコレートって昔、媚薬だったんだってね。そのせいかなあ」

「っあ、」

「違う?私の指のせい?」

ちゅぽん、と口から彼女の指が抜き取られる。
俺の口端と彼女の指先を繋ぐ銀糸がとろりと垂れて、途切れた。

(とりあげないで、くれ)

夢中で味わっていたものを不意に取り上げられて、つい恨みがましく彼女を睨んでしまう。

「ごめんね?そろそろくすぐったくて」

ふふ、とおかしげに笑う彼女の眼にある色が浮かぶ。
俺にある種の”意地悪”をして、愉しむ時のそれだ。

「ねえチアキ。どうしたい?」

いっそ無邪気な雰囲気さえ発しながら、彼女が首を傾げた。

「……意地が悪いな、君は」

「いきなりこんな事されたんだもん、お返しだよ」

鼻先に、てらてらと俺の唾液で濡れそぼる指を突き出されて、ぐうの音も出なかった。

「……そういう君に」

「うん?」

「もっと。好きにされたい」

「いいよ」

承諾と共に、ヌルリと濡れた指が俺の口内に侵入してきた。

「じゃあ、もっとちゃんと舐めて?」

耳朶を甘噛みするちりっとした感触が走り、低く蕩けた彼女の声がそう告げた。
語尾は疑問形を取っているが、実質は”命じる”に近い声音だ。

頭の芯がジンと痺れる。

もう、余計な事は考えられない。

君のその指先と、艶めく声、猥雑な手管に、今夜も翻弄されて溺れていく。

 

 

LION HEART

【注意書き】

・END1または2を迎えた後の2人
・たぶん半同棲してる
:本編ネタバレあり
・セクシャルな描写あり(行為の描写は回想にちらっと程度)
・ほぼ女攻め描写ばかり(苦手な人は逃げてください)
・設定ふんわり

 

LION HEART

 

「はぁ……かわいー」

スマホで動画鑑賞中の彼女が呟いた。
ここのところ、お気に入りのチャンネルに日参するのが日課だから、今日もそれが始まったんだろう。
イヤホンで視聴してるから、俺には音声は聞こえない。
彼女の声だけが聞こえる状態だ。

「ほんっと、かわいいなお嫁さん。いいなあ……」

小声ながらうっとりとした声に、思わずピクッと肩が跳ねた。

いや、よくあるアレだ。
かつて(今も?)日本では社会生活に疲れた、自立した女性が、時に『お嫁さん欲しい』と零してたらしいから。
だから多分、そういうアレなんだろう。

ましてや彼女はお姫様ってタイプではなくて、あの島で看守に誘導されて遊んだゲームブックの”勇者様”ってポジションが異様にしっくり来るくらいだ。
昨今の情勢に相応しくない言い方をすれば、男前。
いや、もはや漢前なところがある。
それも相まって、かわいいものに癒やしを求めるのは摂理なのかもしれない。

(いや、俺にはかわいいと思えるところもあるんだけど。あれは、俺の前限定だったら嬉しい……じゃなくて。
とにかく、こんな事で噛み付くのは、大人げない)

俺はあまりしっかり観た事はないが、そのチャンネルは家族の日常をメインに投稿していて、それなりに有名みたいだ。
夫婦2人と、うろ覚えだがフェレットと何か小動物も飼っていたはず。
全員いわゆるキャラ立ちは強いようだが、中でも彼女が気に入ってるのが、その家族の中の奥さんに当たる人らしい。

彼女いわく「性格がおっとりしててかわいくて面白いし、家事が上手で、最高」との事だが正直面白くはない。

日常生活ではほぼ絶対、会う機会も接点もない人物。
さらに相手は既婚者で同性、そして俺がいるんだし彼女と何か起きるなんて可能性は恐らく万に1つもないだろう。
それでも俺以外の他者に彼女が関心を示して、手放しで褒めてるのはわりと嫌だ。

「……なあ」

「うん?なあに、チアキ」

「俺だって、家事は一通りできる。仕事を在宅メインにして、毎日仕事から帰ってくる君のために掃除や炊事をこなす事だってやろうとすれば可能だ。日本語だとカヨイヅマ、とか言うんだっけ?」

「んん?ああ、通い妻ね。うん、そういう言葉もあるね」

「君のためならカヨイヅマでも何でもやるから。だから、よそ見しないでくれ」

「あー、あのねチアキ。今はさ、推しにはしゃいでるのが楽しい時期で、そのうち落ち着くやつだから。あんまり気に病まないで?」

「わかってるよ。でも、俺以外に君の気を引くものがあるのが嫌だ」

特にその”推し”とかいうやつ、嫌だ。
俺とは別次元に好きでいる感じが、何だかものすごく気に食わない。
狭量に、恋人の心の機微のそんなところまで束縛したいわけじゃないけど、感情が抑えられない。

「……俺には、君だけなのに」

「そっか、わかった。私が悪かったよね、ごめん。
もう今日は観ないから。ね?」

彼女がイヤホンを外しスマホを置いて両腕を広げて、俺を促した。

今日は、っていうのがちょっと引っかかるけど、とりあえず俺の方を向いてくれたからいい。
遠慮なく抱きついて、甘い匂いのする首筋に顔を埋めた。
彼女の手がそっと伸びてきて抱きしめられ、ゆっくり優しく俺の髪を撫でてくれる。
その指先の温かさと快さに、うっとり溺れてたこの時の俺は知らない。

彼女の唇が音を立てずにニヤリと弧を描いて、『やっぱり、チアキの方がかわいい』と呟いた事も。
無意識に彼女の中の獅子を煽ってて、その夜美味しく捕食されてしまう事も。

 

purgatorium

・島を出た後の二人(どのENDでもありません)
・チアキ視点
・主人公に特殊な独自設定あり
・軽度ながら暴力表現あり
・捏 造 過 多
・細部はフワッとしてます
・END3のIFのようなイメージですが闇深めです
・色々特殊なので何でも読める方以外閲覧非推奨です

 

 

だからその手を離して

だからその手を離して

 

ユーゴの墓標の前での再会。
エモーショナルな場面のはずだが、振り返った彼女は驚くそぶりなく俺を一瞥して、髪を掻き上げた。

「……驚かないんだな」

「そうだね。私はチアキの知ってる”私”じゃないの」

それは、奇妙な言葉だった。
そして、この場には何だか似つかわしくない気がする。
ひたと俺を見つめる彼女は、あの島で、離れた後で狂おしいほど焦がれた姿と相違ない。
それなのに、どこか透明で手が届かないような感じがした。
奇妙に胸がざわつき、心拍が上がる。
これは、緊張によるものだ。

「君は……君だろ?俺を、助けてくれた」

「あの島にいた私は、今の私とは違う。
都市部で働いて時には帰宅の遅くなる、どこにでもいる平凡な成人女性。
チアキを見つけたそういう”私”は私じゃない。あれは、ただの設定だから」

「設定?」

「あの時期は待機期間だった。私の『勤め先』の指示で、”私”に扮していただけ。
しばらくしたら本来の仕事に取り掛かるはずだったのが、あの夜で全て狂ったの」

「それは、もしかして俺のせい?」

「正確には違うけど、きっかけはチアキと会った事だね。
あの島は治外法権で、不自由だけど自由でよかったよ。
離島だから『勤め先』もこっちに手が出せなかったし。
できるわけないけど、ずっと居てもいいくらいには好きだった。
……今日、ここにはね、仕事を辞めてから来たの」

「君が、仕事を?」

口の中が異様に渇いて、オウム返しに彼女の言葉を反復する。
だめだ。思考がまとまらない。

この女性は、俺の知ってる彼女であり、その彼女ではない。
それだけは確かなようだった。

「今日、チアキとちゃんとお別れするためにね。
……もう想像ついてるかもしれないけど、私は完全に闇の住人だよ」

彼女の表情にはどんな感情も宿ってなくて、瞳は昏く光を無くしていた。

その様子は、彼女の言葉が真実であると裏打ちしているかのようで。
数歩こちらに踏み出してきた彼女の手を、反射的につかんだ。
黒で統一された衣服の下、柔らかな肌と温かい体温を感じる。
俺の片手に収まってしまう華奢な手に、初めて触れたときめきよりも、違和感が勝った。

(足音が、しなかった)

草を踏む音、土を蹴る音、かすかでもそれらのどれかの音は普通、するはずなのに。

あの島で、たまに遅れて面会室に「ごめんなさい!」と駆け込んでくる彼女は、パタパタと軽い足音を立てていた。
それに、面会室のある建物を出て宿泊施設へ戻る姿を見送った時も、後ろ姿とかすかな足音を名残惜しく何度か見送った事がある。

あれは、全てが演技だった?
足音も、仕草も、邪気など全く感じない屈託のない表情も、あの全てが創り上げられたもの?
馬鹿馬鹿しい。そんな事あるはず、ないじゃないか。

「黙って辞めてきたから、明日か5分後には頭が吹き飛んで死ぬかもしれないね」

「やめてくれ!」

天気の話でもするみたいにひとりごちた彼女を、強く遮った。

「ああ、ごめんなさい。こういう話、嫌だよね。
でもね、私はそういうのが日常の世界で暮らしてきたし、その枠の中で死ぬ。
それが、明日か5分後か、数年後かの違いなの」

「……君は」

「私は、チアキが好きだよ。それは本当。
今の私も、島での私も貴方が好きなのは変わらない」

「っ」

「お願い、手を離して。私と居たらダメ。貴方ならわかるはずでしょう」

「でき、ない」

ぎゅうと、すがるように華奢な手を握りしめてしまう。
ミシリと骨に食い込む音が聞こえるかのようだ。
痛みがあるはずなのに、彼女はまるで意に介してないように淡々と言葉を紡ぐ。

「チアキを好きな私のままで限界まで生きて、
闇の世界からは離れた場所で逝きたいの。
それが、今の私の心からの願い」

「俺は、」

「ねえ、チアキ。お願い」

待ってくれ。君のそんな甘い声を、今ここで、こんな場面で聴くなんて。
そんな優しい甘えるような蕩けた声、あの島でも電話でも聴いた事なんてない。

動揺する俺に、彼女は感情の凍った声音で死刑宣告をくれた。

「だからその手を離して」

 

 

それでもこの手を離さない

それでもこの手を離さない

 

俺は、かぶりを振った。
そんなつもりはないけど、眉の寄った険しい表情になっていたかもしれない。

「できない。今君の手を離したら、二度と会えないだろ」

「それは……そうだね。最初からそのつもりだったし」

それは、俺の空の墓標に別れを告げて、ひとり姿を永遠に消すつもりだったという事に他ならなかった。
この彼女なら、俺の生存の可能性に気づいていたかもしれないのに。

「君は、ひどいな」

「そう?お互い様じゃない」

くすりと、彼女がひとひらの笑いをこぼした。
大人の女性らしい落ち着いた笑い方は、彼女本来のそれなのかもしれない。
あの島での、いとけない朗らかな彼女は本当に、この”彼女”が扮していただけのもの?
胸がギュッと痛くなった。
いや、あの彼女もこの彼女の一部ではあったはずだ。
それに、こうして対峙して触れてしまえば、やはり彼女と離れたくないと強く思う。

「私、乱暴なのは好きじゃないの」

「……ごめん。痛い思いさせて」

彼女の手をきつくつかんだままだった。
それでも離すわけにはいかないから、ほんの少しだけ力を緩めた。

「そうじゃなくて、私がこれからする事の話だよ」

困ったように、彼女が眉尻を垂れ下げる。

「どういう……ぐぅっ!?」

「ごめんなさい」

ゴッ、という音と共に、みぞおち付近にかなり強烈な振動を浴びた。
叩き込まれたのが彼女の拳だと、地面に崩れ落ちてから知った。
彼女の利き手らしい握り込まれた右手には、何かの金属がはめられていたが、それが何だか知る術はない。

「こうでもしないと、離してもらえなかったから。
最初で最後だけど、痛い思いさせてごめんなさい」

小さく頭を下げた彼女は、眉を下げた困り顔のまま俺に微笑んで、踵を返した。

髪がふわりと風に靡いた。
場違いだけど、それを『美しい』と思った。

ああ、後ろ姿だ。
今日声をかけるまで、じっと眺めていた姿。
それを眼に映しながら意識を飛ばしかけて、二度と会えない可能性に思い至った。


(嫌だ!!!)


「っ、えっ!」

「かないで、くれ……」

地面に倒れ込んだまま、限界まで手を伸ばして彼女の踵にやっと触れた。

「うそ、どうして」

「おねがい、だ。俺から、はなれないで」

「……私、腕が鈍っちゃったかな」

普通は気絶するのに、と当惑した呟きが聞こえる。
もちろん撲られた箇所は猛烈に痛いし、正直気絶しかけたけど、たぶん彼女は場所を少し外したんだと思う。
それが俺への恋慕なり情なり執着なり……いずれにしろ、俺に向けられた感情ゆえであったら、嬉しい。

「行かない、で」

「でもね、私と一緒にいると物騒な事ばかりだよ?
また痛い思いもするかもしれない」

「……そんなの、いい。どうだって」

「今の私は、島にいた時の
『お人好しで屈託なくて、ちょっと抜けててすぐ赤くなるような感情豊かな』
私じゃないよ。それなりに賢しくて手も口も回って、荒事と汚れ仕事が生業。
それが私」

「君じゃないと、いやだ」

「……一緒にいるなら、『勤め先』は変えるけど仕事は前と同じままで、
護るために私はチアキの事をどこかに閉じ込めると思う。
また囚われの身に逆戻りしちゃうんだよ。普通の生活なんてもうできなくなる。
それで、貴方はいいの?」

「君なら……構わない。一緒にいたいんだ」

「今なら、戻れるよ。その手を引っ込めて、目を閉じたら、
次に起きた時には私は消えてるから。これが最後のチャンス」

「いやだ……離さない」

――じゃあ、地獄の底の底までずっと一緒だね。

そう囁いた彼女に、そっと抱きしめられて俺は意識を手放していた。
きっと、次に目覚める時には彼女の檻に抱かれて、愛されて眠る。
そんな日々が始まるんだろう。

君が君でさえいてくれれば、いい。
どんな事が起こっても
君がどんな人であっても、
それでもこの手を離さない。